御柱祭の起源
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式年造営 御柱祭の起源

諏訪大社上社前宮幣拝殿 諏訪大社上社本宮(奥が幣拝殿)

◆御柱祭の起源について
 信濃国の一之宮である諏訪大社は、その成り立ちの古さ、全国的的な諏訪神社の広がりから見ても、数多いわが国の神社の中で極めて重要な地位を占めている。
 よく古代の祭祀の形態を現在に伝え、その独特なる信仰を今日まで保ってきている諏訪大社上社並びに下社は神社神道を研究する上からも注目されている神社です。
 殊に、寅年と申年の7年目ごとに行われている御柱大祭は、その神事の特殊性、その起源の古さ、更にまたその規模の雄大且つ豪壮の点において、昔から天下の三大奇祭の一つにあげられている特殊な神事で、永い歴史と伝統の間に、行事にもまた祭事にも多少の変遷はありましたが、その真随を現在に伝えていることはまことに意義深いことである。
 今日単に「おんばしら」または「御柱祭」と称していますが、本来は式年造営ということであります。式年造営とは、ある一定の年限を定めてその神社の御本殿をはじめ、その他の社殿を新しく造り替えることであって、他の神社について見ますと、伊勢神宮では20年毎に、住吉大杜(大阪)、鹿島神宮(茨城)、香取神宮(千葉)、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ・京都)、春日大社(奈良)なども、それぞれ20年毎に式年の御造営が行われておりますが、諏訪大社ではこれが7年目毎に行われています。
 前に列記した諸大社の例を見ますと、従来の学説では社殿の耐久力に関係していると考えられていますが、その根底には神の意識の再確認、信仰の再認識、即ち氏子たち信者の魂のよみがえりを意味するものであるとも考えられます。
 さて、諏訪大社においてはこの大祭がいつ頃から行われていたかというと、古代における文献はそう多くはありませんので、その起源のすべては明らかになってはおりません。 現在に残っている最古の文献である「諏訪大明神絵詞(すわみょうじんえことば:延文元年・西暦1356年)足利尊氏の奥書あり」によると、「寅申ノ支干に当社造営アリ、一国ノ貢税、永代ノ課役、桓武ノ御年二始マレリ」とあります。 これによつて御柱祭は奈良朝時代第50代の天皇でありました桓武天皇の御代から始められたという説が今日の通例となっています。
 これは桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に命じて、東北征討の軍を起された時に坂上田村麻呂が心中に諏訪大神の守護を祈念して、その御神助によって無事に大任を果したことを復命しましたので、天皇が神恩奉謝のため勅命を下して延暦23年(西暦804年)の申年に当って、信濃国の各郷庄に命じ」国の総力をあげて諏訪神社の式年の御造営に当らせたものである考えられます。
 しかしながら、これが諏訪の式年造営即ち御柱祭の最初ではなく、前記、絵詞にもある通り「寅申ノ支干当杜造営アリ」ということは、寅年と申年には今までも小規模ながら造営がありましたが、これからは信濃国全体でこの御造営に奉仕せよということであって、諏訪の社の存在が一躍発揮されたと見るべきでありましょう。 従って式年造営は諏訪大神が諏訪の地に御鎮座されて以来、一社特有の神事として続けられて来たものであると考えることが正しいと思われるのです。
 現在では、御柱祭とはただ大きな大木の柱を山から曳いて来て、社殿の四隅に建てるのだと考えられていますが、これは式年造営のほんの一部であり、昔は社殿から鳥居、玉垣までみな新しく造り替えられたというのが本来の姿で、鎌倉幕府の北条高時または天正6年の武田信玄の造宮帳には
  • 大宮(本宮)一の御柱は北佐久郡の大井庄(岩村田町附近一帯)で受持ち
  • 二の御柱は小県郡小泉庄
  • 三の御柱は同郡塩田庄(上田市)
  • 四の御柱は同郡浦野庄
  • 前宮一の御柱は下伊那郡伊賀良庄(伊賀良村一帯)
  • 二の御柱は上水内郡
  • 三の御柱は中伊那(伊那市一帯)
  • 四の御柱は上水内(長野市附近)で奉仕し
  • また下社春宮一の御柱は常田庄(上田市)
  • 二の御柱は依田庄(小県郡依田村一帯)
  • 三の御柱は河中島(更級、埴科、上水内郡)
  • 四の御柱は南安曇郡
  • 秋宮一の御柱は村上庄(更級郡)
  • 二の卿柱は下水内郡
  • 三の御柱は若槻庄(上水内郡)
  • 四の御柱は下高井郡で奉仕
  • 上社本宮の大鳥居は佐久郡、小県郡海野
  • 前宮の鳥居は中伊那郡
  • 春宮の神殿は東筑摩郡の信府、和田、岡田
  • 神楽殿は北安曇郡千国小谷、秋宮の神殿は屋代などで奉仕
 その他の建物、玉垣などすべて信濃国の各郷庄で奉仕していたことが記されています。
 江戸時代になってこの制度も縮少され、諏訪藩の支配のもとに現在の諏訪地方三市一郡の人々の奉仕によって、それぞれ上下両社の御柱を曳き建て、建物の御造営については、上社の宝殿、下社の神殿のみを神社において造営してその伝統を今日に伝えています。
(本文は、昭和49年3月10日発行、御柱冊子「おん柱」を原文に作成)


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