諏訪大社上社御柱情報
 

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上社御柱の主要な行事の詳細

御柱の見立て(仮見立て〜本見立て)
 御柱の見立てとは、諏訪大社に曳き建てする御柱御用材(樅)を八ヶ岳御小屋神林において伝統の旧儀のもとに神職、山作り衆、氏子総代、関係氏子により選定する作業をいう。
(※注1 平成22年を含め連続3回、八ヶ岳御小屋神林では伊勢湾台風時の倒木等被害により8本の大木が揃わず近隣他市町村の協力により調達させていただいている。)
 先ず、御柱年の約2年前に仮見立て8本の選定を行い、その後「本見立ての儀」を行って御柱用材を最終決定をする。また、伐採後に適さないと判断される御用材があるために予備木も選定しておく。

御柱抽籤式
 上社本宮・前宮、合計8本の御柱曳行地区を決める神事。御柱年の2月15日、上社本宮神前において、関係各市町村千有よの氏子が見守る中で抽籤式が行なわれる。
 関係の旧18ヶ村を8地区に分けて、その各組から古例によって選ばれた8名の抽籤抽籔総代は、1ヶ月余にわたってそれぞれ抽籤に向け精進を重ねる。例えば、家人と別火の食事にしたり、あるいは風呂は必ず一番風呂に入ったり、または連夜に亘って冷水を浴びたり、連日諏訪大社に早朝詣出をするなど、抽籤人各自の考えの元、あらゆる方法によって心身を浄めこの日の神前に臨む。
 そして厳寒の2月15日上社御神前において、宮司の祝詞奏上の後にいよいよ抽籤式が開始されます。一人づつ神前に正座し抽籤を待つ抽籤人。そして結果は如何にと見守る氏子の群衆。 抽籤人は次第に見も心も引き締り、かすかにふるえる人、顔が蒼白にかわる人、まさに神人一体、願いが叶うなら本宮一の御柱! 諏訪大神の御神意を仰ぐ瞬間に臨みます。
 引いた紙縒りは宮司ならびに立会人に示され、やがて禰宜によって社前に参集する氏子に伝えられ、その度にわきあがる大歓声は、凍てつく上社周辺にこだまして7年に一度の御柱大祭の幕あけにふさわしい感動的な光景がくりひろげられます。

火入式
 御柱伐採の前日に茅野市玉川神之原に居住する諏訪大社上社山作り衆によって、神祭ならびに伐採用具の火入式の儀が行われます。
 山作り衆は、山造りまたは山見とも称され、毎年8月1日に行われている諏訪大社下社御舟祭の御舟製作奉仕。また、御柱においては鎌倉時代から八ヶ岳「御小屋神林」の管理と御用材伐採、建て御柱では御柱の先端を落とす「冠落し」、御柱迎えの神事に使われる通称と御舟と呼ばれる神舟の作成など、御柱に関して極めて重要な任務を受け持つ一団で、茅野市玉川神之原区の8軒が代々父祖の業を受け継ぎ今日に至っている。江戸時代元禄3年に時の諏訪上社の大祝頼隆が御小屋明神に奉納した朱塗の神斧(斧=よき)を護持し、その神斧護持を山作り衆の象徴としている。
 当日は山作り当番の家に集合して、床の間に御小屋明神、諏訪大明神、金山彦神の掛軸をかけて、その御前に神斧をはじめ御柱伐採用器具を供え祭事をおこない御柱伐採の奉告と無事故を祈願する。
 ひきつづいて伝統ある原氏宅鍛治場において、神事の後、父祖伝来の古式にのっとり浄火をきり、これを松葉に移してフイゴで火勢をあおりながら、神斧をはじめ、その他の斧、大鋸など伐採用器具一式を次々とこの浄火にかざしてけがれを浄めます。別名この儀を火焼式とも言われている。

御柱伐採
 上社の御柱伐採の儀は伝統ある旧儀のもとに、前記の御柱本見立てにより決定された御柱御用の巨木を、早春の八ケ岳御小屋神林(※注1 上記御柱見立て)で行います。
 この日午前5時に出発、降り積もった雪を踏みわけ、御小屋明神の祠の前において山作り衆をはじめ、氏子総代など関係者全員が参列して伐採奉告祭を行います。その後伐採場所に到着後、樹齢数百年に及ぶ本宮一の巨木の前に集り、修祓式を行い山作りの当番が伝統の朱塗の神斧をもって、斧入れの儀をすませます。そして、各御柱木担当の山作りならびに伐採奉仕者がそれぞれの御柱木に斧入れをして、伐採作業にとりかかる。
 ゴーン、ゴーンと巨木に打ち込む斧の響きと、ザーク、ザークと手引き大鋸の音とが雪と寒さにとざされていた原生林の静けさを破り、やがてバリバリという大音響とともに周囲の立ち木を押しのけて、雪煙りをあけて倒れてゆく御柱御用の巨木。その度わき上がる氏子の大歓声、伐採奉仕者の汗の結晶である伐り倒された巨木の上に登って叫ぶ万歳三唱の声、「御小屋の山の樅の木は里に下りて神となる」、「皆様ご無事でおめでとう」など自慢の木遣歌が御小屋神林に轟きわたります。伐採された御柱御用材はその後、原村柳沢地区御柱置き場に曳き出され、休め置かれます。

山出し祭
 諏訪地方20万人の氏子たちが奉仕し7年目ごとに行われる「諏訪大社式年造営御柱大祭」は、原村柳沢地区の御柱置き場から出発する上社御柱祭山出しから始まります。
 天下の三大奇祭と称されるこの祭りは、数年がかりで準備を重ね、御柱年4月初旬の早朝、「御小屋山の椛の木は、里へくだりて神となる」と木遣一声によってその幕がきっておとされます。
 八ケ岳の御小屋神林から伐り出された8本の御柱御用の巨木は、上社関係旧18ヶ村の氏子の人々の奉仕によって行なわれ、まず清祓い、綱渡りの神事のあと、諏訪の男の晴姿と血気にはやる若者たちが、御柱の左右のメドテコに先を争ってとりつき、声自慢の木遣唄が謡いわたると数千の曳子の歓声がドットあがり、ラッパ隊の進軍ラッパの響きと共にオンベの波がゆれ、曳綱がピント張られるとさしもの御柱の巨木もにぷい地響きをたてながら動き始めます。各部落の旗を先頭にして数万の観衆が見守る中、しだいに祭りの興奮をたかめながら最初難所である穴山大曲りを通りぬけ、子之神の御柱街遺を一気に曳きくだし長峰街道を木落し坂に向うます。延々2kmにわたつてさしもの御柱街道も曳き子と衆人とオンベの波に埋まり、御柱祭りの興奮をいやが上にも盛りあがってゆきます。

御柱木落し
 上社の御柱山出し祭の一番の見所となるのは壮観な木落しであります。木落しとは中央東線の鉄道に添ってたつ宮川小学校側の50m余の大断崖の上から、御柱を曳落とすのでありますが、この時、御柱と共に乗り下ることは、諏訪の男衆の度胸の見せどころで、御柱の先端やメドテコの両側に鈴なりに取り付いている勇み肌の若者たちは、いずれも奥山から曳き出される山出しの最初からメドテコに乗り続けて来た勇者揃いです。
 全長100m余りに及ぷ2本の曳綱がピンと張られ、ラッパ隊の演奏が、ひときわ高くなり響く時、今までゆれ動いていた御柱が急にその先端を下げて、一瞬あがる土煙りとともに落下します。周囲の田畑も上川の河原も人家の屋上にも万余の大観衆が群がり、折から通りかかりの急行列車さえもが最徐行してこの壮観を見守っています。
 7年に一度の御柱大祭の興奮もこの一瞬につきるかと思わせるのでありますが、かくして上社8本の御柱も次々と木落しを終え、今度は又別の興奮でわきかえる宮川の土手へと近づくのであります。

宮川川越し
 豪快であった木落しがすむと今度は御柱川越しの壮観があります。川越しとは一名御柱洗いと称して宮川の清流の中を御柱を曳き渡すことであります。
 昔は木落しが終わると各御柱は今までの曳順によらず、競争で川越しをする古いならわしがあって、一気加勢に数千名曳き子達が大観声をあげ、突撃ラッパの響きも勇ましく田んぼの中を横断して宮川の提防に向かい、われ先にと激流に飛び込んで曳綱を渡し、御柱もろともに大飛沫をあげて川越をしたといいますが、現在では危険防止を考慮し、本宮一、前宮一、本宮二、前宮二、本宮三、前宮三、本宮四、前宮四の順に川越しを行っています。
 まず、本宮一の御柱の曳綱の先端が宮川の提防にさしかかると勇敢な若者が冷水の宮川を泳ぎ渡り対岸へと曳き綱を渡します。川越しは、上社ならでは見ることの出来ない御柱祭第二となる必見の見所です。
 順次川越えを終わった8本の、御柱は安国寺の御柱屋敷に曳き揃えられると、曳子一同は御小屋神林の方向に向ってオンベを振って「山の神返し」の木遣り唄「山の神様お帰りだ、皆さまご無事でおめでとう、双方お手打ちお引取り」とうたいあげて、シャン・シャン・シャンと手縮めをして各地区へひきあげるのです。翌日関係者によって、曳きそろえられた8本の御柱の周囲に注連縄(シメナワ)を張り、修祓式を行って里曳祭りの日まで1ケ月間ここに休めておきます。

御柱休めの儀
 御柱の山出しが終ると4月中の寅または申の日を選んで御柱休めの儀が行われます。これは今まで建っていた御柱を取除くことで、この役目は昔から中金子村(諏訪市中洲字中金子)が奉仕するのを例としています。
 諏訪郡諸村並旧蹟年代記に「御柱建穴堀埋ハ中金子人足、古き御柱ハ同村工被下候」とあり古式によって現在に及んでいます。当日部落の役員が大社に参集してまず修祓を受けてから徹去に従事いたします。倒した前回の御柱を氏子総出で部落の産土八龍神社前に曳き揃え、そこで諏訪大社宮司、並びに役員が参列して古御柱祭を行ないます。
 八龍神社は諏訪大社の境外末社で宮川の堤防添いにあり、元は八立神社ともいい上社本宮、前宮の8本の古い御柱をここに休めたと伝えられていますが、現在では本宮分4本のみであります。古御柱のその後の処分は中金子部落の任意ですが、多くは社殿などの修築材料その他に使われています。
 また御柱建の建穴堀、御柱固めなども同部落の任務となっています。

御柱里曳き
 緑の苗代にさわやかな風が渡る5月初旬の3日間。いよいよ御柱里曳き祭の始まりです。宮川安国寺区の御柱屋敷に曳き揃えられてあった本宮と前宮の御柱合計8本! 御柱曳出しの綱渡りを終えそれぞれ本宮と前宮に向けて曳き出します。
 山出し祭りの豪壮さにくらべるとこの里曳きは、祭一色にぬりつぷされた華麗な時代絵巻きをくりひろげたような楽しい祭りであります。上社からは露払いを先頭にして宮司以下衣冠の神職が行列を整えて、御舟による「御柱迎えの儀」を本宮一の御柱前で行います。
 御柱見物の楽しみのひとつ、思い思いの衣装をこらして担ぐ「道中長持連」、宿場長持連」が一悼、二悼、三樟と繰り出して、本宮へ本宮へと向かいます。
 また町内には江戸情緒豊かな大名行列の御騎馬が繰り出し、社頭では御祭神の御神徳にちなんで龍神の舞がその妙技を演じ、さしもの広い神域も町並も参集した大観衆で埋まって、身動きもできないほどとなります。
 古来より「人を見るなら諏訪の御柱へ行け」といわれるように、この人波をわけて、木遣り唄やテコ方の掛声にあわせて、さしも巨大な御柱も除々に前進して、7年一度の御柱大祭はここに最高潮'を迎えます。

建御柱
 御柱が境内に曳きつけられると「山の神返し」の木遣歌と万才があり、引き続き古式にのっとり「冠落し」の儀が行なわれます。これは御柱の先端を三角の錐形に整えることで、これによって御柱が冠をつけ神の柱になったことを意味するといわれています。
 古くは神社の工匠長が御柱の寸法を計ったうえで、第一の斧を奉仕したのですが、現在では上杜山作り衆がこれにかわり、引続いて御柱斧取りの係が次々に斧を入れることになっています。冠落しが終るといよいよ建立が始まります。境内を埋め尽した万余の観衆が見守る中で、血気の若者たちが徐々に曳き建てられてゆく御柱にまたがって、2ヶ月にわたる御柱大祭の名残りを惜む最後の華を飾って、万雷の拍手にこたえ、やがて垂直に建てられた御柱の冠の上に幣束を打ち、御柱の根元につめ木を打ち込んで曳建一切の行事を終わり、翌日御柱固めの祭事が古例に従って中金子部落の奉仕によってとどこおりなく執り行なわれます。

式年造営と遷宮
 上社の御柱の曳建てか終わってから一ケ月余りたった6月15日に、式年遷宮の儀、宝殿遷座祭の儀が行なわれます。式年遷宮とはある一定の年限を定めて御本殿を改築して、御神霊を新造の御殿に奉遷する神事で、諏訪大社他神社にとっては最も重要な祭事であります。
 伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、住吉大社などでは20年目ごとに行なわれてお'りますが、諏訪大社では7年目ごとの寅と申の歳に行なわれております。これが今日の御柱大祭に相当するものであります。古い記録を見ますと既に千有余年前、桓部天皇の御代延歴23年から信濃国の一国をあげて御宝殿、拝殿、神楽殿、鳥居、透塀、瑞垣などあらゆる建造物の御造営を奉仕し、また御柱を曳建てています。社殿など一切の工事が竣工したうえで御遷宮の大祭が行なわれておりますが、全国にこのような特殊め神事を残しているのは諏訪大社のみであります。今日でも、かしこくも皇室から幣帛料の御下賜をたまわり厳修されているのであります。
(本文は、昭和49年3月10日発行、御柱冊子「おん柱」を原文に作成)