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A 白岩観音(徒歩5分)と惣持院
 現在の白岩観音の観音堂は安永三年(1774)に再建されたものである。立川流初代の立川和四郎富棟の作である。堂は桁行三間・梁間三間・入母屋造りで軒唐破風をつける。正面虹梁上に竜の彫刻をおく。向拝柱の木鼻には、正面に唐獅子、側面に漠の彫刻をつける。彫刻はこのほか唐破風の懸魚に菊を、その奥の羽月板に鳳凰の彫刻をつけている。白岩観音と延宝六年(1678)の「矢ケ崎村宗門帳」に「真言宗仏法寺道心、白岩の観音守久極坊」という名前が記載されている。延宝九年の同宗門帳には「観音那学仏法寺久極妨」とあり、天和四年(1684)まで、同じ様な記載がある。元禄四年(1691)には「真言宗仏法寺春西坊」、同七年には「道心、真言宗仏法寺春西坊」、以下元禄十二年まで同様の記載がある。また、元禄三年の矢ケ崎検地目録には「観音免」がある。これらの史料から、延宝から元禄のころ、「白岩」に「観音」があり、守・別当・道心がいたことが分かる。白岩というのは、永明寺山の花崗岩の白い岩のことを言うのであろう。享保十八年(1732)、『手元絵図』 には、「観音堂」と「惣持院」とが記載されている。その場所は、前述の新道ばたで現在の場所である。その時には、観音堂も惣持院も現在の場所に存在していたわけだ。惣持院の名前は、ここに初めて出て来る。     参考文献 ちの町史
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B 達屋酢蔵神社(徒歩5分)
 達屋酢蔵神社は、茅野駅前正面の専門店ビル「ペルビア」を中を通りぬけ、茅野〜上社の参道大鳥居をくぐり4〜5分のところ「茅野市ちの横内」に位置し諏訪大社の末社としてはかなりの格を持った神社であった。御柱祭りの御柱山出しについて、江戸時代前より「横内村」と呼ばれており、天正十二年(1584)十月の日付の文として、横内村矢嶋左近が伍龍女(姫)宮大明神へ宛てた「御柱出のの御柱事」の山礼がある(『史蹟踏査要項』)。本文は「神長官の口上にて、東嶽御小屋山植木にて壱丈八尺四本、小宮三拾弐本出し申し候、脇々より少しも構い御座なく候」というものである。伍龍姫宮とは達尾酢蔵社のことで、小宮を含めて横内村が御小屋から御柱を出すのは、このように古い由来があり、上社の末社として高い社格を伺い知ることが出来る。
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C 御座石神社(徒歩30分)
 濁洒祭(どぶろく=酒)で名高い御座石神社の祭神は、諏訪大社の祭神建御名方神の御母神越沼河姫神である。祭神が女神ということで古くから御柱を建てないで、そのかわりに御柱の年ごと古式にのっとって黒木鳥居を建てている。黒木鳥居とは、皮をむかない原木のままの木を使い、二本の柱を地中に掘立柱として垂直に建て、これに丸太のままの笠木と貫をおいたもので、鳥居の起源を今に伝えている重要な形式の鳥居である。建御名方神は、出雲国の大国主神の御子神である。『古事記』によると、天照大神が建御雷神と天鳥船神を大国主神のところにつかわして国譲りをせまった。このとき、大国主神とその御子神の八重事代主神はこれを承諾したが、もう一人の御子神の建御名方神は、譲るか譲らないかはカ比べによって決しようということでカ比べをした。その結果、建御名方神は負け、逃げて信濃国の諏訪湖のほとりに追いつめられて殺されそうになった。そのとき、建御名方神は、私はこの地から決して外に出ないで父や兄の命令にはそむかないからと申して、諏訪の地にとどまり、この地を治めたといわれている。以後、建御名方神は諏訪明神とあがめられ、諏訪大社の祭神として祀られた。建御名方神とカ比べをした建御雷神は常陸国(茨城県)の鹿島神宮に、天鳥船神は下総国(千葉県)の香取神宮に祀られていて、この二柱の神は、建御名方神とともに武勇の神として尊崇されている。国譲りの神話からわかるように、建御名方神の御父神は、出雲国の大国主神である。御母神は越国の沼河姫神で、越国とは古代北陸地方全般をいった。後、越前、越中、越後と三国に分かれるが、沼河姫は、現在の糸魚川地方に君臨していた首長であった。出雲国は、朝鮮半島に近く本州の西の端にあり、糸魚川は本州中部に位置していてその距離は遠く隔たっている。この両者の間で夫婦神となったのであるが、そのことは『古事記』に八千矛神の沼滑河姫への求婚の段に書かれている。八千矛神とは大国主神の別名である。大国主神にはこのほか大己貴神(おおなむち)、大穴牟遅神(おおあなむち) など、いくつかの名前がある。八千矛神とは、多くの矛すなわち武器を持った強い首長ということであり、大国主神とは、出雲という大国を持つ首長ということをあらわしている名前である。求婚物語には、八千矛神が越国に賢くうるわしい女がいるとお聞きになって、はるばるとやって来て求婚に通いつづけられた。そして、姫の寝ている板戸をゆさぶっているうちに、とうとう鶏が夜明けを告げてしまった。それでも姫は、なかなか戸をあけようとしなかった。しかし最後には、姫の白い腕や柔らかい胸をだいて、玉のような美しい手を枕にしてお休みになった。と書いてある。この二神の間に生まれたのが建御名方神である。『出雲風土記』によると、この両神の間に御穂須須美命(みほすすみのみこと)を出雲国島根郷でもうけたとあるが、この神の事跡については何もしるされていない。   参考文献 ちの町史
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D 諏訪大社上社前宮(徒歩15分)
 上社前宮は、諏訪明神発祥の地であるから、諏訪神社上社の祭祀を調べ、諏訪信仰を研究するうえで最も大切なところとなる。諏訪明神が現人神として人間の姿になってあらわれたのが大祝(おおほり)とされてきた。この大祝が当初より何百年も長い間、前宮の場所の奥深くにいて神としてあがめ奉られてきたのが諏訪信仰の特色である。諏訪明神である大祝が住んでいたところを神殿といった。字のごとく神様の御殿という意味である。その場所は、県道から坂道を登り旧道に出たところの平地で、周囲にめぐらされていた土塁の一部が今も残っている。ここには、いくつかの御殿があって、その中心のものが高神殿(たかごうどの)、これに続いて大祝が常に住んでいた中部屋御殿、広間御殿などがあった。またこれらの御殿の正面に大事な御神宝を納めておく内御玉殿(うちみたまでん)があった。御神宝とは弥栄の鈴、真澄の鏡、御宝鈴など天皇家の三種の神器にあたるものである。大祝は大切な祭祀には、これらの御神宝を身につけ、扉をあけてあらわれたといわれている。このほか、神殿には神原廊(ごうばらろう、十問廊)、舞殿である高御子屋などがあり、周囲を土をもった塀でめぐらし、東に神願門があった。さらに神殿から山よりに200メートルほど登ったところに、諏訪明神の祖先を祀る御神陵があって、これを地元の人々は「おやま」といっている。ここが現在前宮の本殿のあるところで、昔は今のような社殿はなく、建御名方神の墳墓といわれる古墳と、続いて藤の老木があって人々はそれを御神木といっていた。さらに、これに続いて八坂刀売神の墳墓があり、その近くには、大祝一族の墳墓があった。これらの墳墓の中心に御霊位磐(ごれいいわ)といわれる大きな岩があった。大祝は近くを流れる水眼の川よで身を清め、この岩の上で斎戒して、天から神を降臨させ、自らが神の依る体となって、祀りごとをおこなった。この御霊位磐の上に、いつしか屋根がかけられ、さらに社のようになっていった。現在の社殿は、昭和七年伊勢神宮の古材によって建てられたものである。     参考文献 ちの町史
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E 尖石考古館、及び、尖石遺跡(車25分)
  
 上記写真は、縄文時代の遺跡から発見され、国宝に指定されている「縄文のビーナス」と、平成12年8月23日に茅野市湖東山口地区中ッ原遺跡から出土した「仮面の女神」です。共に、尖り石考古館において見ることが出来るが2点とも尖石遺跡からの出土品では無く、左の縄文のビーナスは、昭和61年に茅野市米沢工業団地造成中の調査中、棚畑遺跡にて完形で発見され、造形美の見事さなどが認められ国宝に指定された土偶です。
 また、右の土偶は同じく縄文時代の土偶で、愛称公募の結果「仮面の女神」と名づけられ文化財指定を待っています。この土偶は、副葬品として宗教的な何らかの理由により、わざわざ、割られて埋められたと考えられています。
 縄文の宝庫八ヶ岳山麓尖石遺跡 八ヶ岳山麓地帯は縄文時代中期の大遺跡が多くあることで全国的に知られているが、西麓の代表的遺跡は何といっても尖石遺跡(とがりいしいせき、特別史跡)であろう。海抜1070メートルの東西に延びる長尾根状台地南側斜面に、安山岩性の三角錐状を呈する高さ1.1メートルの巨石があり、その片側が少し凹んでいる。磨滅のしかたが人工的であり、縄文人の石器研磨用紙砥石とみる説もあるが、ともかく、この尖り石が地名の由来となっている。尖石遺跡は1893(明治26)年、学界に報告されて以来幾多の研究者の踏査がつづき、昭和5年以降は生涯をこの仕事にかけた宮坂英弌が調査し、尖石遺跡で33軒、北側に隣接する与助尾根遺跡で23軒の竪穴住居跡を発掘している。その結果、尖石遺跡は縄文時代中期初頭に居住しはじめ、中葉に拡大繁栄し、末期に隣りの与助尾根台地に分村して、ついには両者とも終焉を迎えたと推定されている。遺跡は民有地のため第33号住居跡のみ保存しているが、与助尾根遺跡には復元家屋三軒があり、ともに尖石古代公園として一般の見学に供している。多量の出土遺物は、八ヶ岳西山麓一帯から出土した旧石器時代から平安時代に至る遺物とともに南大塩集落の中程にある茅野市立尖石考古博物館に展示収蔵されている。見学者は尖石考古博物館で遺物を見たのち、徒歩25分あるいは車で5分の遺跡に立ち寄るのもよかろう。とくにこの周辺一帯は、平安時代の「延喜式」に記載されている山鹿牧(やまがのまき、大塩牧)の一部といわれ、山寺の白山神社は御牧に関係した人びとが奉祭した神と伝えられている。      参考文献 長野県の歴史散歩
 尖石縄文考古館 5,000年前〜八ヶ岳山麓に栄えた縄文文化を紹介している。 祭祀に使われたとされる、愛称「縄文のビーナス」と名づけられた妊婦土偶は、国宝に指定されている。 また、2000年に発掘され話題を呼んだ「仮面の土偶」も合わせて展示されている。  営業時間は、9:00〜16:30。 入場料は、大人500円、高校生300円、小中学生200円。 尚、休館日は、毎週月曜日、祝日の翌日となるので訪れる場合は注意が必要。年末年始休業は、12/29〜1/3まで。 TEL 0266−76−2270  URL http://www.togariishi.city.chino.nagano.jp/
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F 検校庵(徒歩30分)
 検校庵は、駅前方向から旧蓼科有料道路本町を左折山手に折れ、永明寺山へ向かって続くだんだら坂の舗装道路をのぼりつめる。両側から山はだがおりて、山中深く入り込む錯覚に襲われる。しかし道筋には年々人家が並び、寺の直下まで、ついにつながった。道は大きく曲がり込み、ゆったりと伸びる桜並木の、山門代わりの花のアーチをくぐればそこが検校庵である。寺の規模は、境内地約500坪。本堂45坪、その奥に廊下のように細長い14坪の関山堂兼位牌堂が棟続きに突き出している。庫裡は二階建て62坪、土蔵5坪、別棟にふろ場、本堂の一段下の敷地には隠寮9坪がある。昔は桑畑が広くあり、尼僧たちは桑をもいで大きなビクに詰め、里に背負いおろしては養蚕農家に持ち込み、生活のかてにした時代もあったという。いま畑はない。本堂裏、検校尊石像を安置する検校堂は四坪。両眼のない検校尊御姿像は、この検校堂にまつられる。永明寺山頂への山道に治った古い参道は、いまでもこのお堂のところに通じ、直接おまいりができる。現在、検校庵は鶴見の総持寺と福井の永平寺を大本山とする禅寺で、釈迦牟尼如来をもって本尊とするが、こうした由緒が世に伝わっていて、眼病祈願寺としても知られている。本堂・樺裡災禍のさい、このお堂は難を免がれた。古い時代の検校庵史には不明の部分が多い。いま検校庵は、市民に親しまれ、「じがんざんけんぎょうあん」などと四角四面に呼ぶ人はいない。「おけんぎょうさま」が愛称である。それは、寺のことを指し、尼僧たちをいう共通のニックネームである。検校庵を知る人々は、実に気軽に、「おけんぎょうさま」へやって来る。年忌のワクにとらわれず、先祖供養に、おけんぎょうさまを招く家家が地元には多い。それにこたえて、尼僧たちは、きさくに参詣人に接し家々へ出向くのである。「尼寺」といえば、現世の「外」の世界のイメージである。尼僧たちは、自分に厳しく、仏の道に忠実で、すべてに冬くす姿勢を崩そうとしない。今のような世相であればこそ、人々は、この「外」の世界に、さわやかさを求めるのでもあろう。尼僧たちの徳が「おけんぎょうさま」に人々をひきつけるのである。   参考文献 諏訪の名刹
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G アクアランド茅野(車5分)
 市民の皆さんの健康と福祉の増進を図るための施設です。館内には温泉浴場、遠赤外線高温サウナ、休憩室、リフレッシュルーム、室内温泉プール(25m)などがあります。
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H 上川渓流つり(徒歩5分)
 JR上川鉄橋下より下流が、絶好の釣り場で「イワナ・ヤマメ・アマゴ」等が毎年放流されている。2月16日が解禁日となり、入漁料は1日券1,000円、現場売り入漁料は1日券1,500円、年間入漁料は5,000円ということです。解禁日当日より連日多数の釣り姿が河原に見える。

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I 御柱木落とし坂(徒歩10分)
 御柱(おんばしら)木落とし坂は、宮川小学校下の御柱曳行経路に指定されていて、下記に記した7年に1度行われる御柱祭りの山出し祭の2日目、3日目に行われる、直径1mもあろうかという樅の大木を人と大木諸共、急斜面を下り降りる場面を見ることが出来る坂である。

※ 御柱
 諏訪大社の祭典で干支年号の寅・申の七年ごとに、樅の大木(一の御柱が長さ五丈五尺、以下の柱は五尺落ち)を上社は八ケ岳の御小屋山神林より本宮・前宮まで、約20キロを四本ずつ、下社は霧ケ峰西麓東俣国有林より春宮・秋宮まで約15キロを四本ずつ、木落し・川越しの難所を経て独特の木遣唄で人力によって伐採・曳建を奉仕する祭典で「諏訪大明神絵詞」によれば桓武天皇の御代からと伝わる。曳建の日時は上社山出しが4月最初の寅・申の日の前後2〜3日、里曳は五月初めの寅・申の日前後2〜3三日で、下社は上社より1週間おくれとなる。曳建の費用・労力はかつては信濃国全域に及んだが、現在は諏訪郡の全住民が氏子として市町村の組合せで「くじ引き」によって担当の御柱を定め、人を見るなら諏訪の御柱に行けといわれ諏訪人の心意気を示す場とされた。御柱曳建の意味は「御小屋の山の樅の木は里に下りて神となる」という木造唄に象徴されるが、四天王・四神説、風雨鎮説、神域明示説、神の依代・招代説などと多いが、その中のいずれというよりはすべてであろう。現在は御柱の曳建のみが重視されて宝殿の造営は二義的となり、財政上の都合によっているが、むかしは式年ごとにすべての建物が更新された。このため住民の経済的負担は大きく、祭りの年には結婚・屋造り・元服などを禁じ葬儀も仮埋葬とした。       参考文献  長野県の歴史散歩
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J 茅野市美術館(徒歩15分)
 図書館は、約10万冊の蔵書がある本館をはじめ、7つの分室があります。美術館は、郷土出身作家の作品を中心に、日本画・洋画・彫刻・工芸・書など、美術全般にわたって展示しています。
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K 横内笠地蔵(徒歩5分)
 横内の笠地蔵は、2体の地蔵様である。左側のお地蔵様は奈良薬師寺の弥勒菩薩のように左足を下げた姿の半伽踏み下げ座像で、右側のお地蔵様は普通にすわった姿の座像である。どちらも網代笠(あじろがさ)をかぶった姿が珍しい。右側の像には、享保十年(1725)三月十日と建立日の刻印ある。
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L 茅野市運動公園(徒歩10分)
 広大な敷地の中に、プール、陸上競技場、体育館、野球場、テニスコート、弓道場、相撲場、マレットゴルフ場など、充実した施設が揃う総合運動公園です。芝生広場、こどもの遊び場、野外音楽堂など、憩いのスペースも充実しています。  また、国際スケートセンターは、400mの国際規格スピードリンク30m×60mの国際規格アイスホッケーリンクがあり、一般の利用はもちろん、一般の利用はもちろん各種大会、合宿にも使用されています。また、夏期はゴルフ練習場となり、一年を通じてスポーツに親しむことができます。

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M 諏訪の名刹 頼岳寺(車5分)
  *頼岳寺と永明寺とその周辺
 小林山頼岳寺は、諏訪氏の頼水の菩提寺として創建されたお寺である。それまでの諏訪氏菩提寺であった永明寺が寛永七年(1630)、初代藩主頼水によって破却された。それまでの菩提寺永明寺は江戸時代になって30年間も存在していたわけであるが、諏訪藩主「頼水」は、永明寺破却の翌年寛永八年(1631)に、永明寺に代えてこの頼岳寺を創建した。頼水が上州在封の時に参禅した曹洞宗白井双林寺の十三世大通関徹和尚を開基とした。壮大な規模の寺院であったわけだが、当時の記録の類は後の火災のために何も残っていない。永明寺の本尊であった釈迦如来を本尊とし、諏訪氏の新しい菩提寺になったのである。 父永明寺殿と母理昌院の墓を永明寺から移して改葬し廟所とした。この廟所には後に頼水(頼岳寺殿昊窓映林大居士も合わせて葬ることになる。頼岳寺は藩主より一〇〇石を受け、寛文五年(1665)の宗門改め開始以来、その檀徒は郡内に広くまたがった。 頼水は頼岳寺を創建すると共に、父頼忠の位牌所として宗湖庵を、母理昌院の位牌所として理昌院を建てた。頼忠の法名を永明寺殿光山宗湖奄(庵)主と言うのは、永明寺の一画に宗湖庵があってそこに頼忠が住んでいたものと思われる。 頼忠の夫人は、慶長十年頼忠没後、上原城跡の一画に小庵を建て念仏三昧の生活を送っていたが、寛永四年(1627)に没し永明寺に葬られた。その庵を理昌院と言い今も理昌院平の名が残っている。法名も理昌院となった。宗沢庵は頼忠の四男の大祝頼広の位牌所として建てられた。  現在、頼岳寺は、曹洞宗永平寺と総持寺を本山とする諏訪を代表する最も規模の大きい曹洞宗の寺である。     参考文献 ちの町史
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N 市役所展望室(徒歩10分)
 市役所、最上階(8階)にあって、茅野市内一円を展望できる。中央は、会議室として使用できる造りになっている。
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O 御柱川越し場(徒歩15分)
 御柱(おんばしら)川越し場は、橋の無い宮川を越える御柱曳行経路に指定されていて、下記に記した7年に1度行われる御柱祭りの山出し祭の2日目、3日目に行われ、直径1mもあろうかという樅の大木を人と大木諸共、川にの堤防を下り降りて、対岸の堤防を越える場面を見ることが出来る場所である。

※ 御柱
 諏訪大社の祭典で干支年号の寅・申の七年ごとに、樅の大木(一の御柱が長さ五丈五尺、以下の柱は五尺落ち)を上社は八ケ岳の御小屋山神林より本宮・前宮まで、約20キロを四本ずつ、下社は霧ケ峰西麓東俣国有林より春宮・秋宮まで約15キロを四本ずつ、木落し・川越しの難所を経て独特の木遣唄で人力によって伐採・曳建を奉仕する祭典で「諏訪大明神絵詞」によれば桓武天皇の御代からと伝わる。曳建の日時は上社山出しが4月最初の寅・申の日の前後2〜3日、里曳は五月初めの寅・申の日前後2〜3三日で、下社は上社より1週間おくれとなる。曳建の費用・労力はかつては信濃国全域に及んだが、現在は諏訪郡の全住民が氏子として市町村の組合せで「くじ引き」によって担当の御柱を定め、人を見るなら諏訪の御柱に行けといわれ諏訪人の心意気を示す場とされた。御柱曳建の意味は「御小屋の山の樅の木は里に下りて神となる」という木造唄に象徴されるが、四天王・四神説、風雨鎮説、神域明示説、神の依代・招代説などと多いが、その中のいずれというよりはすべてであろう。現在は御柱の曳建のみが重視されて宝殿の造営は二義的となり、財政上の都合によっているが、むかしは式年ごとにすべての建物が更新された。このため住民の経済的負担は大きく、祭りの年には結婚・屋造り・元服などを禁じ葬儀も仮埋葬とした。       参考文献  長野県の歴史散歩
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P 東京理科大(車15分)
 現在は短大であるが、もうすぐ4年制になる予定で、建設が進められている。内容については下記URLで確認ください。

 学科紹介
電子工学科  生産管理工学科  経営情報学科

一般教育  卒業後の進路  コンピュータ環境

キャンパスライフ  募集概要(平成13年度)  Q&A


大学URL  http://www.suwa.sut.ac.jp/docsj/annai/gakko-annai.html
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Q 粟沢観音堂(徒歩30分)
 粟沢観音堂は、諏訪霊場札所の一つである。諏訪八十八ヵ所札所は、富士見の高森大師堂を第一番札所に境→落合→本郷→富士見→金沢→原→宮川を経て、中洲→湖南→豊田→湊→川岸→長地→下諏訪と諏訪湖を回り、再び四賀→中洲など中筋地帯を通って米沢→北山→湖東→豊平→玉川→泉野、さらに玉川を経由、ここ粟沢観音堂が八十七番札所、そして、矢ケ崎(本町)福寿院が八十八ヵ所の終番となる。
 粟沢観音堂は、小高い丘の上にあって、下から上るにはかなりの急勾配の石段を上がる。境内の建物は、観音堂のほかに鐘突堂がある。また、境内には沢山の桜木があり、桜花の時期には市民の花見会場として親しまれ、毎年5月2日、八十八夜には盛大に粟沢観音八十八夜祭が催されている。

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R 三輪神社・おかめ神社(徒歩15分)
 おかめ神社は、昭和初期、茅野市宮川商店街に宮川商業会ができたころ商業会の益々の発展と、願をかける者すべてに、そして、何にでも明かりを、ともしてくれる神として創立されました。祭神は、天の岩戸事件で大活躍した「あまのうずめのみこと」を主祭神として、祭られております。
 (古事記より)天の岩戸事件で大活躍した、あまのうずめのみことは、見事な踊りによってこの世に、ふたたび明るさを取り戻した、神様として祭られており、芸能の神であり、商売、受験、仕事など何にでも明かりを、ともしてくれる神といえるでしょう。
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S 塚原鎮守神社(徒歩15分)
 塚原鎮守神社は、永明寺山の裾にあって、周りは杉などの木々に囲まれ石段上がってゆくと両脇に石塀を携える神社がある。石段のしたには清水が出ていて石段の中ほどの、両脇に狛犬がいる。私が子供のころは、周囲の木々繁り、昼間でも薄暗く一人で行くには、「ちょっと勇気がいる」場所であった。これは、だいぶ昔の記憶から掘り起こした話しであるが、子供が遊ぶには,最適な場所であったように思う。今でも,御柱年は、小宮祭も行われ4本の柱も立てられる。塚原区民による鎮守様のお祭りもある。昔にくらべ、今は石段も整備され、周りには住宅も増えている。      塚原 SYさんのお話し
 なお、塚原鎮守神社は、上社の撮社末社の中に入っておらず、諏訪藩主『手元絵図』にも描かれていない。昔の塚原・矢ヶ崎独自の物と思われるがその起源はよくわからない、謂れその他わかる方が居られたら教えてほしい。
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T 大塚神社(徒歩7分)
 今の大塚神社は、大塚古墳を取り除いたあとに、その霊を供養する意味で建てた神社である。大塚古墳を発掘したのが明治24年で、当時はこの辺り一帯は水田地帯であった。鉄道線路も、これを横切る中央座通りと呼ばれた道路もなく、古墳を取り巻くようにその北側を川が流れ、その小川に沿って小道があった。この小道は、塚原と構内の村境で下って甲州街道に合していた。古墳は平坦な水田の続く中に、20b四方のほぼ四角形をしたところに大きな川原石が積み重ねられ、その上に草がはえていた。明治初年のころはこれが古墳であるとは誰も知らなかったので、乞食など身寄りのない人が死ぬと、その遺骸をこの上に埋めたといわれている。飯田武郷の碑文によれば、塚原に三塚があって、その南にあるのが大塚、北にあるものが姥塚、東にあるものを王経塚というとあって、そのうち大塚が最も大きい塚であった。明治10年ころから、村人はこの大きな塚の石を上部から掘り取って自由に使っていた。塚の石積は次第になくなり、平らになっていった。するとそこに、南北に長さ8b、幅2b余の長方形の石積みが出てきたばかりか、その中から勾玉、管玉、剣や馬具、それに土器が多く出てきたので驚いた。村人はこれらを東京に持参したところ、1400〜1500年も昔のものであることが証明された、と発掘に至る経過を述べてある。発掘は明治24年5月におこなわれ、その結果は小平小平治が東京人類学会誌に『信濃国諏訪郡ノ古墳』と題して発表した。発掘に際しては小平小平治氏が担当し、村の若者が二日間にわたって、ツルハシやモッコなどを用いて手伝った。このときには既に石室の上部は大部分が破壊されていたので、石室の形態は、はっきりと記録されていないが、村の若者の話によると側壁は弓なりになっていて上部がせまくなっていたといわれていたと、書かれているので、石室の側壁は持送り状のアーチ形ではなかったかと思われる。天井石については、早く取り去られたので、どのような石であったかは、このとき参加した村人は誰も覚えていなかったという。また羨道も石室に続く南方に、それらしい跡がなかったという。これらのことから、墳丘は積石塚とされてきたが、果たして積石塚としてよいかどうか疑問をもつ。考え方によれば、このあたりは上川河床で河原石が多く、水田開発にあたり多く石が出たのでこれを円墳上にすてたのが、積石塚のようになったのかも知れない。長野県では長野市寺尾地区の大室古墳群は、積石塚古墳として著名である。大塚を積石塚とすれば大陸系の古墳に属するから論究の余地がある。大塚古墳発掘の遺物は、人骨をはじめ装身具としての玉類、そして直刀、馬具、鋼鉄などであるが、その数がいちじるしく多い。出土物は塚原林野利用農業組合所蔵であるが、現在八ヶ岳総合博物館に保管されている。大塚古墳は盗掘がなかったため、副葬品をはじめ出土品が多数発掘され、諏訪地方の古墳文化を解明するうえで貴重な資料となっている。直刀は鉄製のために腐蝕がはなはだしいが、これに付属する鍔や柄、鞘などの装具金具によって刀の造りがわかる。玉類は勾玉、切子玉のほか丸玉の数が多いことと、メノウ、水晶、滑石ガラスなど石質と製品との関係が判明する。最も特色とするところは、馬具の完全なものの出土である。轡は四組あるが鏡板といわれる部分が円形で、引手が連結している。鎧は円形のものが一組、その他銃具やくさり、鞍金具等が発掘された。馬具が出土するということは、当時すでに乗馬がおこなわれていたこと、またこの地方に馬を産していたことが明らかになる。諏訪で他の古墳からも馬具が出土するが、近くでは諏訪市四賀上桑原の四ツ塚古墳があげられる。   参考文献 ちの町史

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U 茅野市民会館(徒歩1分)
 音響・舞台装置の整った1,000人収容のホールのほか、ホワイエ(展示会場)、10名の会議室などがあり、講演会、コンサート、各種発表会などに広く利用されています。
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V 八ヶ岳総合博物館(車15分)
 郷土の自然、風土と人々の生活について、市民の皆さんの学習及び研究の手助けをする施設です。館内は、地学・陸水・生物などの自然、考古・歴史、産業、民俗などの人文から未来までを、ジオラマ、剥製、模型、映像などを使ってわかりやすく展示しています
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W 諏訪大社茅野駅前参道大鳥居(徒歩1分)
 諏訪大社茅野駅前参道大鳥居は、茅野駅前正面の専門店ビル「ペルビア」を中を通りぬけた正面にある。この大鳥居は、茅野駅より上社を結ぶ参道の入り口に立っており、茅野駅を利用しての諏訪大社参拝をするための表参道ということができよう。なお、この参道を下ると別項にも記載してあります諏訪大社の末社「達屋酢蔵神社」があり、この神社へ通じる大鳥居の役目も果たしている。
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X 大年神社(徒歩2分)
 大年神社(大歳社)は、上社に関係する古い神社で現在駅前に位置するが、関係地区として正式には茅野市本町地区に所属する古い歴史のある神社である。大昔、上社現人神である大祝(おおほうり)などが狩をするときに連絡用の狼煙(のろし)上げた場所でもあると伝わる
 尚、茅野市には大小数多くの社(やしろ)やお堂が残っている。社の中には上社の攝社末社といわれるものがある。上社の攝社末社は上十三所・中十三所・下十三所合せて三十九社、上社関係十五か村に分かれていた昔の御頭御社宮司などは主要な社である。攝社は本社に付属し本社に縁故の深い神を祀った社であり、末社は本社に付属する小さい社である。
 村々の氏神とか産土神などに比べて格が高いものである。そのむかし、十五か村には、次のような攝社末社があった。矢ケ崎村では、御頭御社宮司社と御座石社の二社である。御頭御社宮司社は現在は単に御社宮司社といわれている。現在では余り存在感のある神社ではないが、江戸時代諏訪藩主が描いた『手元絵図』ではちゃんとした社殿も描かれている。御社宮司社というのは、古村にだけあった社で、その中でも特に御頭と付くのは一五社だけである。それは御頭郷の親郷である古村の御社宮司社にだけ付けたものである。ちの地域では、矢ケ崎村と上原村は親郷であったので、両村に御頭御社宮司社があったわけである。
 塚原村では、上記の大歳社と守木社の二社があった。大歳社は広義にいえば矢ケ崎村に関係する社だが、絵図では塚原村に入れられている。大歳社は上十三所の中の一つとして、中世文書によく出ている。守木社(森木社)も古い由緒があるようで、中世文書にも出ている。鎮守社は攝社末社の中に入っておらず、『手元絵図』にも描かれていない。横内村では、建屋社・酢蔵社、山神社があった。山の神の祭神は大山祓神で、横内の山神社は『手元絵図』 に描かれているように、社殿を構えていた。『手元絵図』 では、立合明神・御領姫宮と書かれている。
 上原村には、御頭御社宮司社・葛井社・千鹿頭社・八幡社・山神三社・秋葉社・稲荷社の九社があった。葛井(九頭井)社は上十三所の一つでもある。『手元絵図』では、秋葉社・稲荷社を除いた七社は、それぞれ立派な社殿が描かれている。お稲荷さまといえば狐を連想するが、祭神は食稲魂神である。上原村にこんなに撮社末社が多いのは、五山六坊というように寺がたくさんあったのと同じ城下町の遺産であろうか。      参考文献「ちの町史」
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Y 犬射原神社(徒歩2分)
 犬射原神社(犬射原古墳)も上川河床古墳のひとつといわれ、今は神社として祭られている。古墳といっても現状では、何ら古墳らしい様相をていしていない。石祠のあるところが古墳上とされているが、周囲には石室の石らしいものも見あたらない。この場所は中世には犬追物をした場所といわれ、そのとき弓矢で射殺された犬を埋めたところで犬塚ではないかともいわれている。古墳かどうかは不明である。      参考文献「ちの町史」より
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Z 上原八幡神社(徒歩20分)
 上原の城下町の起源を考えるために、上原八幡を問題にする場合が多い。八幡信仰はもともと、九州の宇佐八幡信仰を起源とし、これを平安時代、奥州征伐に立ち向った源頼義が軍神として尊崇し、のち源氏が氏神として祀ったのである。頼朝は鎌倉幕府創設にあたり、鎌倉の中央に守護神として鶴岡八幡宮を造営した。以来、各地の源氏は同様に自分の居館地に誉田別命を祀る八幡宮を造営した。その例として甲斐源氏の流れをひく武田氏は、宇佐八幡を勧請して武田八幡宮=並崎市)を造営し氏神と仰いだ。現社殿は武田信玄が造営したもので、国の重要文化財に指定されている。上原八幡も、同様な意味で大祝諏訪氏が勧請し、今の位置に社殿を造営したとしてよいだろう。この位置を選定した理由は、居館が上原城の麓にあったから、城下町をへだてて相対する位置をえらんだことと、葛井明神と同様に神を祀るのにふさわしいところで、しかも前宮の方向を考えて遠地したのではなかろうか。なぜなら、鎌倉時代から室町時代にかけての交通路は鎌倉街道で、この道は、永明寺山麓を通っていた。藤ノ森のあたりは町屋敷といっていたから、人々でにぎわっていたことだろう。現在の八幡前の道は、甲州街道として整備されてからのことであるから、創立時は神社にふさわしい静寂な場所であった。諏訪氏の氏神は諏訪明神であるから、上原八幡はあくまで、城下町を経営とするための鎮守神的要素をもった神社として祭祀したにちがいない。中世は神仏習合といって、神と仏は一体のものであるという祀り方が流布していた。それ故、神社には必ず別当寺ができ、神宮寺とか神護寺という名称でよばれた。上原八幡の別当寺は、隣接する極楽寺と光明寺であった。
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a 葛井神社(徒歩25分、車10分)
 別名「久須井神社・九頭井神社」とも言われ、諏訪大社上社と深いかかわりのある社、十三所御社の一つ。十三所御社とは、大祝(現人神・おおほうり)にとって祖先神を祀る重要な場所と考えられている。    (参考 ちの町史)
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b 神長官守矢史神長官資料館(徒歩25分、車10分)
 この資料館は、旧神長官守矢家宅に隣接して建設され、昔長く上社の旧神長官(神主長・事務長的な職務)を継承してきた守矢神長官家に伝わる歴史的資料を公開している。甲斐の武田信玄に関係する資料や品々、祭祀に用いた用具など展示している。中でも、守矢文書といわれる貴重な古文書も管理保存している。この古文書は約130通弱が現存しているといわれ、ここ、茅野市、諏訪圏の貴重な歴史的資料として研究が進められている。
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